祈りの年月
祭られている主神は思兼命。慶雲3年(706年)には八幡神、天正3年には当郡の領主小笠原信貴に依って新羅明神が観請されています。八幡神、新羅明神共に甲斐武田氏の遠祖であります。信玄公が天に召されたこの「駒場」の地を望む丸山の城にて「拝みをなすこと、誠なること、身の行いなり」と高坂弾正血縁の人々が苦難の末残る生涯を静かに送ることとなったのです。それは許される武田家への深き義理でありました。国初の人々を愛した定家卿の言葉に心を寄せた高坂弾正その血縁の人なればこそ、ここに行き着いた祈願の世界があったのです。
この地「駒場」を想うに、遙かに赤石連峰を望み神坂峠を控え、温もりのある地味豊かな土地であります。古代の人々が共に描いた様に安寧を望みうる最良の場所の一つであったのではと思われます。
丸山高坂家当主は、代々信玄公の御霊を祭るため、根羽村横旗地区世話人宛に長い年月寄進を続けていたとの古文書が大切に保管されています。根羽村横旗地区とは、甲陽軍鑑一説に信玄終焉の地とされています。
この地「駒場」を想うに、遙かに赤石連峰を望み神坂峠を控え、温もりのある地味豊かな土地であります。古代の人々が共に描いた様に安寧を望みうる最良の場所の一つであったのではと思われます。
丸山高坂家当主は、代々信玄公の御霊を祭るため、根羽村横旗地区世話人宛に長い年月寄進を続けていたとの古文書が大切に保管されています。根羽村横旗地区とは、甲陽軍鑑一説に信玄終焉の地とされています。

