高坂弾正つれづれ丸山丘陵/最上に八幡神その下には高坂弾正及び丸山高坂本家の墓がある。
戦国時代の駒場
戦国時代、信濃は23年にも及ぶ甲州武田氏の統治下にありました。三河・美濃に通じる宿場町「駒場」(こまんば)は、古代東山道と三州街道との合流地点にあり、奈良・平安の時代より、伊那谷西南地方の中心を形成しており、戦国時代であっても人々の活発な往来がありました。

その宿場町「駒場」を一望できる丘陵丸山には1,000坪もの敷地を持つ武田軍の山城が築かれ、関所の役目を負い、三河・美濃(徳川・織田軍)からの進入に備えた重要な戦略的砦でありました。しかし、天正元年(元亀四年)信玄公念願の西上作戦の途上、数年来の病悪化の為、駒場の地で無念の生涯を閉じました。信玄53才の初夏でありました。

天正三年、長篠の戦いにて徳川・織田両軍に大敗した武田勝頼軍を迎える為、当時海津城にて北信濃の経営を任されていた高坂弾正は、8千の自軍の兵を引いてこの「駒場」の地まで駆けつけました。兵士の傷の手当てをし、勝頼以下の武具を整え、まるで勝軍の将の様に甲府まで送りました。この時の様子を高坂弾正は優しいと、甲陽軍鑑に記されています。

高坂弾正が執筆とされる「甲陽軍鑑」は信玄亡き後数年の間に記されたものと伝えられています。高坂弾正は慎みを知り、誠をもって信玄公及び勝頼に数々の進言をし、無謀な戦いを極力避ける事に尽くしました。
武具要説・武道心鑑

甲陽二十四将図(天正年間)

甲陽軍鑑 写本

甲陽軍鑑


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