銘菓高坂弾正もなかきつつき抄
きつつき抄
(小誌「駒場と高坂弾正もなか」より一部抜粋/高坂睦年著)
戦国軍記の名著とされている甲陽軍鑑は、高坂昌信半生の作で、川中島合戦前後から、天正元年信玄の死までの十数年間と、信玄の没後から昌信の気力、体力の充分であった五十一才前後までの数年間、合わせて十五年以上に亘って書かれたものにちがいない。主人信玄の遺徳を纏めて、これを後継者勝頼君及び後世に伝えたいと希ったものであろう。

永禄四年(一五六一年/昌信三十六才)、九月十日未明かの戦史に有名な川中島乾坤一擲の合戦が展開される。死斗九時間、凄絶な戦いのあと、引分けられた戦場の跡には六千余に及ぶ戦死者が残されたと伝えられる。負傷者の手当と収容が、どの様に行われたのか。夜の闇に紛れて夜盗も横行したであろうし、野犬も走ったであろう。雲間を駆ける月光と戦場の夜霧に晒された死者の顔は、望郷の涙で濡れていたであろう。昌信は敵味方の区別なく戦死者を丁重に葬り、それらの遺品も整理して、上杉方のものを春日山の謙信のもとに送り届けたと云う。

元亀三年(一五七二年)昌信は海津城の城主となった。北信を制した信玄は、同年十月十日信遠の境い青崩峠(秋葉街道)を越えて遠州に入り、三方原において織田・徳川の連合軍と合ってこれを大破する。さらに駒を進めて長篠に向かう途次、野田城攻めにかかる。然しこの戦さの最中に、永禄十一年十一月以来の持病の再発を見、織田軍との衝突を中止し、伊那を通って甲府に帰ることを決心した。元亀四年三月九日北設楽田口村まで帰った頃信玄の容態は更に悪化した。

信玄終焉の地を根羽年とする説と、阿智村駒場(向う関)と云う説が対立している。どちらかが真実かについての考察はここでは省略する。信玄の病没は、天正元年(一五七三年)四月十二日となっている。時に五十三才。
信玄没後五年間、信玄の霊を祭り、武田家の将来を憂いつつ、天正六年(一五七八年)、昌信は海津城内で病没する。信玄と同じ五十三才であった。

軍団にとって、駒場こそ敵に備え乍ら休養を取る最良の地であったと思われる。駒場の中央屋並のすぐ下手には、信玄の霊を葬う經文をあげたと云われる長岳寺があり。長岳寺の西南一キロの丘には、武田家縁故の飯田・善勝寺と共に武田家の菩提を弔うことになった高坂家一統の墓地、のろし山などが綴在する。家並の中央には、宿屋、飲食店、薬屋などが集まっており、春木屋さんはその中にある菓子の老舗である。この春木屋さんの売っている菓子に、二品の名物がある。一つはEXPO'70で最高賞に輝いた春木屋栗まん十、他の一つが高坂弾正もなかである。信玄及びその重臣高坂弾正忠昌信ゆかりのこの地で、弾正もなかが売られているのもまた昔を忍ぶ縁となって楽しい話ではあるまいか。
甲陽軍鑑 写本

紀州本 川中島合戦

高坂弾正 書「依思借後納定」(元亀三年)

武具要説・武道心鑑

高坂弾正もなか

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