銘菓高坂弾正もなか紀州本川中島古戦図
杞枸子について
銘菓寂室に用いている杞枸子(クコの実)について、興味深いお話をご紹介します。
薛先生の杞枸子のお話
杞枸子は不老長寿の名物として中国では古くからよく知られています。乾隆皇帝(清王朝第4代皇帝)が服用していた薬「清宮寿桃丸」をはじめ、長寿の名方「亀齢集」・「亀鹿二仙膏」・「七宝美髯丹」・「杞元膏」や「杞菊地黄丸」などにはいずれも杞枸子が含まれています。

杞枸子を長期服用することで、精を養い、心身が充実することから、脳の働きが活性化され、もの忘れをはじめとする老化を予防することができると言われています。さらに顔色がよくなり、視力回復の効果も期待できます。杞枸子は棗杞・杞子・血杞子、甘杞子、紅果子・明目子などの別称でも呼ばれています。漢方では滋補肝腎に働くとして重宝されていました。

乾燥させると長持ちしますし、色も綺麗で、少しの甘味がありますので、ちょっとしたお菓子にも使われていたのかな、、、と普段に杏仁豆腐、饅頭やお粥にも活用しております。
杞枸子を愛した、中国・清の乾隆皇帝
清朝(1662〜1991)における乾隆嘉慶の間に活躍した。乾隆嘉慶は、1736年〜1820年の約80年である。清朝は大きく康熙・雍正期(1662〜1735)、乾隆・嘉慶期、道光以後(1821〜)におおきく分類することができる。乾隆嘉慶はこの第二期にあたり、祖父である康熙帝そして父である雍正帝が創始継承した王朝の隆盛を、満身に享受したのが清朝の第三の皇帝である乾隆帝であった。

乾隆帝、姓は愛新覺羅、名は弘暦という。1736年に25歳で即位し、1795年に85歳で嘉慶帝に帝位を譲るまで、60年にわたって皇帝として君臨した。西洋では王侯貴族たちが華やかに最後の宮廷生活を謳歌し、日本では徳川八代将軍吉宗(1716〜1745)が、享保の改革を終える頃であった。乾隆嘉慶期の次の道光以後は、西洋では、王侯貴族の時代は終焉となり、産業革命による近代を迎え民衆の革命の嵐が吹き荒れる頃を、日本でも欧米諸国の外国船が見え隠れし近代の足音が遠くに、しかし確実に聞こえる頃を迎えるのであった。

このような世界の趨勢は、中国にも例外なく訪れ、阿片の蔓延による経済問題が政治問題に発展し欧米列強との対立・戦争へと発展していくことになる。乾隆嘉慶期は、上述のような世界的な歴史の転機を迎える以前の、もっとも国力の充実した80年間であった。

乾隆帝の治世の中で、とくに記すべき政治項目として辺境の国域への拡大が挙げられる。現在の中華人民共和国に匹敵する範途を領地としたことが挙げられる。特筆すべきは、知識人に対する負の政策である「文字の獄」の惹起と「禁書」の励行であり、正の政策である『四庫全書』や『大清會典』の編纂である。「文字の獄」は、満州人の王朝である清朝へ漢人の誹謗や中傷に対する検閲の一種で、文章の字句の使用にまで及び、著者のみならず一族郎等まで死罪が加される苛烈なものである。康熙・雍正・乾隆期に実施され、ことに乾隆期は厳重で、漢人の知識人をつねに震撼させたのである。また「禁書」は、「文字の獄」と同じく清朝への誹謗や中傷に対する検閲で、杉村勇造氏の『乾隆皇帝』(二玄社)によれば「禁書」になった文献は1879種を数え、冊数にして数万冊に及ぶという。このような状況の中で乾隆8年(1743)とう石如は生まれた。

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