池田正明 先生
埼玉医科大学教授/埼玉県川越市在住(長野県下伊那郡高森町出身)
ふるさと南信州への思い(1)精神医学者 高坂睦年先生のこと
(南信州新聞「綴りの輪10」2012年12月4日掲載)
南信州新聞「綴りの輪10」2012年12月4日掲載誌面 学部4年生の夏、わたしは緑の森を背景に、白い壁と赤い屋根、真ん中の塔の緑十字が一際目立つ建物の前に立っていました。高坂睦年先生に会うために吉備高原にあるルミエール病院を訪れたときのことです。
 病院の受付で「学生ですが先生にご挨拶したい」と告げると、突然の訪問にもかかわらず受付の係の方が院長室に通してくださいました。
 院長室の窓からは一面に吉備高原の海原のような森とゴルフ場のグリーンが広がり、そこに先ほど私がやって来た一本の道が病院へ向かってのぼって来ています。部屋の奥の方に目を転ずると、岡崎嘉平太(元全日空社長、岡山県賀陽町出身)の署名のある力のある書がかかっています。
 そこに満面笑みを浮かべた背広姿の先生が入ってこられました。私が先生に最初にお会いした時の事です。
 高坂睦年先生は大正2年、南信州阿智村伍和に生まれました。旧制飯田中学から旧制松本高等学校に進み、岡山医科大学(現在の岡山大学医学部)を昭和15年に卒業されています。卒業された当時は太平洋戦争まっただ中で、卒業と同時に海軍軍医として軍務に服されました。
 軍医時代のことは殆ど話されたことはなかったのですが、唯一戦時中に海軍に徴用され海軍病院として利用されていた伊東の川奈ホテルでの事をなつかしそうに話してくださったことがあります。
 終戦とともに、当時精神神経疾患の研究で、特に日本脳炎に関して多くの成果をあげておられた精神神経医学界の泰斗林道倫教授(後に新制岡山大初代学長、歌人齋藤茂吉は東大精神科の同期生)の門を叩かれました。
 当時の大学病院では、高坂先生はじめ若い医局員が早朝に集合して、患者さんの頭蓋内の静脈から採血を行い、その成分の分析のため夜を徹して研究に集中されていたという話を伺っています。高坂先生は長年、精神神経疾患の病因解明のため、病因解明と治療を直に結びつけられるような病棟と研究施設を併せ持った研究所を作りたいと構想を練っておられましたが、ついに昭和44年の春に、恩師の林道倫教授の悲願でもあった脳の総合研究所である脳代謝研究施設を大学の付属施設として開設することを実現され、初代の施設長に就任します。
 昭和49年には飯田高校同窓会の招きで講演会を飯田高校で行っており、脳疾患の研究にかける情熱が伝わってくる講演会の様子を当時の同窓会報(飯田高校同窓会webサイト)からうかがうことができます。
 今から思うと、私が突然病院を訪ねて先生にお目にかかったのは、54年に岡山大学教授を定年退官され、吉備高原に新しく設立されたルミエール病院の院長に請われて就任したばかりの昭和55年夏という、先生にとっては病院の立ち上げでお忙しい時期だった事になります。そんな時期にアポ無しでやって来た学生を、嫌な顔一つせず終始笑顔で迎えてくださり、飯田の話や最近主催された学会の事など話してくださったように思います。
 この日は、初対面であったにも拘らず話がはずんで、あっという間に夕方になってしまい、車を2台連ねての帰路、夕食まで御馳走になってしまいました。学生時代にはその後何度か自宅に伺い奥様の瀬戸内の魚を中心にした手料理をいただいたり、尾道の港近くに宿をとってチヌ(瀬戸内海では黒鯛のことをチヌと呼びます)釣に連れていっていただいたり、と小学校の3年生になって初めて海を見た典型的な伊那谷育ちの私にとっては、貴重な経験をさせてもらいました。
 ある時夕食にこないかと誘われて、ご自宅に伺うと先生は何やら論文の原稿を書かれているところで、ちょっと覗いてみると様々なパターンの波をいくつか並べてある図を準備されておりました。数年後に出版された本を手にしてわかったことですが、このとき先生は、川上正澄先生(当時横浜市立大学医学部生理学教授)と共同編集されていた「生体リズムの発現機構―体内時計の医療への応用」の原稿の図を準備されていたのでした。この図の原稿を目にした時は、私の将来のメインの研究テーマが、この「生体リズム」になるとは、自分自身知る由もありませんでした。
ふるさと南信州への思い(2)生体リズムの研究
(南信州新聞「綴りの輪11」2012年12月20日掲載)
南信州新聞「綴りの輪10」2012年12月20日掲載誌面 高さが4〜5メートルあるカクタスサボテンの生えた赤茶色の乾いた山々、真っ青な空から照りつける太陽、やけどをするような夏は40℃を超える「熱さ」、水の流れた形跡のない川、緑豊かな伊那谷に育った私にとって、最初はこのような砂漠の街で過ごせるのだろうかと思ったアリゾナ州ツーソン(Tucson)の街に対する気持ちも、2年間住み続けるうちに、学会出張からツーソンの空港に降りたって空港のいたるところに植えられたカクタスを見ると「ああ帰ってきたなー」という何か安堵感につつまれるような気持ちになるように変わって来ていました。
 そんな空港に、アリゾナ大学の研究室で約2年間一緒に過ごした大学院生アルデン君と同じ大学出身の藤原先生が来てくれていました。私はこの夏から東京の国立神経・精神センターの研究所に赴任する事が決まって、二人は帰国する私を空港まで見送りに来てくれたのです。
 つい数ケ月前までは、アリゾナでの研究が一区切りついたので、次の研究場所をどこにするか真剣に考えなければならない時期になっていましたが、あまり本気に就職活動をしておらず、帰国することになるとは全く考えてもいませんでした。
 そんな折、アメリカの会で知り合ったある先生が、「国立神経精神センターの研究所にポジションがありそうだけれど、そこに戻ってくるつもりはありますか? もしあるようだったら話を先にすすめてみますが」と連絡をしてくれました。
 そこがこの時決まっていたポジションです。研究室のヘッドは高坂新一部長(現国立精神・神経医療研究センター神経研究所所長)。高坂睦年先生のご子息で、この年の4月から国立神経・精神センターの研究所に新しく研究室を開き、その立ち上げメンバーの一人として私にポジションをオファーしてくれているというのです。今迄の研究を継続してもよいということだったので、二つ返事でお願いすることになりました。親子二代に亘って仕事上でお世話になることになったわけです。
 高坂先生の研究室で仕事を始めたばかりの夏のある日、研究室に行くと、研究室のメンバーがお昼を食べたり休憩をしたりするテーブルに菓子折りがおいてありました。その蓋には毛筆体で「弾正もなか」とあります。高坂部長が阿智村駒場にある菩提寺に先祖の供養をしたおりに、同所春木屋に立ち寄られ私たちにおみやげとして買い求められたということでした。蓋の傍らには「駒馬と高坂弾正もなか」と書かれた紙片が置いてあり、そこには高坂部長の父君高坂睦年先生によりもなかの由縁(ゆえん)が闊達な文章で綴られておりました。この最中を知って以来、私は飯田を訪れる時は駒場の春木屋に立ち寄って、季節のお菓子とともにこのもなかを一緒にいただくことを楽しみにしています。高坂先生の口上を耳元で聞きながら。
 高坂部長の研究室で約2年間ポスドク(ポストドクターの略=博士号を取得した後、数年間研究に従事する年間契約の研究員のこと)をした後、更に、同じ研究所内で精神疾患の研究室に正規の研究員のポジションを紹介していただき、高橋清久部長(現国立精神・神経センター名誉総長)のもとで「感情障害」の研究を開始する事になりました。
 感情障害とは「気分障害」ともいわれ、うつ病や躁うつ病などの感情に障害の出る精神疾患を指しています。留学時代から睡眠に関係する分子や気分障害に関連する分子の遺伝子研究を生かして欲しいということでした。大学院時代は、うつ病には朝方症状が悪化するというような生体リズムと関連する異常のあることから、体内時計の研究を始めていましたが、うつ病の研究室に所属し、病気のことを深く研究し始めたところ、体内時計を作り出している遺伝子があるのではないか、うつ病は概日時計(約24時間の時計)の遺伝子の異常でおこるのではないか、と考えるようになりました。概日時計とは地球の自転から生じる24時間リズムの体内時計のことで、私たちの体の中に備わっている約24時間のリズムを概日リズムといいます。この約24時間のリズムが遺伝子によって作られているのではないかというわけです。
 1970年代初頭には、ハエの遺伝子配列をランダムに壊してしまう実験から、24時間のリズム周期が24時間より長いハエ、逆に短いハエ、更にリズムが消失してしまうハエも見つかっていて、そのハエから1980年代半ばにはPeriod(ピリオド)と呼ばれる遺伝子が発見されていました。ヒトに概日時計の遺伝子(時計遺伝子)があるのではないかと考え、高橋部長に相談してヒトの時計遺伝子を見つける研究プロジェクトを始めることになりました。1992年の年も押し迫った12月のことです。
ふるさと南信州への思い(3)時計遺伝子ビーマルワンの発見と精神医学
(南信州新聞「綴りの輪12」2012年12月25日掲載)
南信州新聞「綴りの輪10」2012年12月25日掲載誌面 フロリダ東海岸にあるアメリアアイランドのホテルプールサイドに体内時計の研究者が一同に会していた。明日から時間生物学の国際学会がここジャクソンビル近郊のアメリアアイランドのリゾートホテルを会場にして開催されることになっており、その歓迎パーティーが始まったところである。
 私は5年越しの時計遺伝子を発見するプロジェクトを遂行し、前年(1997年)4月にヒト脳から新規の転写因子(DNAの遺伝子情報からRNAを作り、そこから蛋白合成を指令する一連の反応の最初のスイッチとなる因子)の遺伝子を単離、遺伝子配列を決定し、BMAL1(ビーマルワン)と命名して専門誌に発表していた。フロリダまでやってきたのはBMAL1が時計遺伝子であることを示す確かな証拠である「脳内の体内時計の中枢でBMAL1遺伝子が発現し、その発現が24時間リズムで振動している」というデータを学会最初のシンポジウムで発表するためである。
 プールサイドで昨年CLOCK(クロック)という時計遺伝子を発見した日系2世のジョセフ・タカハシ博士と初めて話をすることになった。私がBMAL1を発見した研究者であることは名前を聞いてすぐに理解してくれた様子で、握手をすると話題は明日の最初に行われるシンポジウムのことになり、そこでCLOCK分子がBMAL1と結合してPeriod(ペリオド)遺伝子のRNAを作る指令を出すスイッチになっているという発表をすると切り出して来た。「そこまで彼らは進めていたのか」というのがこの時の正直な感想だった。
 通常なら午前のシンポジウムが終わるとランチのためすぐに会場には誰もいなくなるのですが、このシンポジウムが終了した後は、会場内や廊下は大勢の人が溢れ、一度も話をしたことがない研究者が私に近づいて来てどこの専門誌にこのデータは発表することにしているのか? などと次々に質問をして来た。この日は概日リズムの研究が大きく前進した記念すべき日となった。
 うつ病と概日リズムの関係は、今どのあたりまで分かって来ているのであろうか。時計遺伝子とうつ病の関係を調べた研究も既にあるが、直接関係していることを示すような研究結果はまだ得られていない。
 国内で自殺による死亡者数は、年間3万人を毎年超えており、その6割にあたる人はなんらかの精神的な問題をかかえていたとされている。その中でもうつ病による自殺が多い。うつ病は心の風邪と言われていたことがあるが、風邪のように放っておいても自然にすぐに治ることは少なく、専門医の治療を受けかつ休養を十分にとって初めて回復するケースが多い病気である。治療の機会を逸して悪化してしまうケースが多いのも事実です。そのため早期受診の機会を失わないように啓発活動が必要になっています。
 病気のなり始めは必ずしも抑うつ気分や意欲の低下などの精神状態の変調からではなく、頭痛やひどい肩こり、下痢などの胃腸症状、食欲の低下、寝付きが悪いなどのどちらかというと身体症状が前面に出る事が多く、内科の先生など、初診は精神科ではない科を受診することが多いと言われています。また、うつ病のかかり始めに、今迄のように仕事がこなせなくなってしまった場合、自分の能力ややり方の問題と考え、病気のせいで仕事が十分にできなくなったとなかなか思えなくて、逆に無理をして頑張ってしまうのも、受診が遅くなり病状が悪化してしまう原因になっています。
 精神症状や身体症状が、朝方悪く、夕方には少し良いように感じるというような、症状に日内変動のある状態が続き、しかもそれが体調や周りからの影響ではないように感じられる場合は、うつ病である可能性が高くなります。治療は抗うつ薬や不眠があれば睡眠薬も併せて用いる薬物療法が中心です。頭に電気を通す通電療法も効果のあることが知られています。通電療法は今では麻酔科医による全身管理のもとで施行する施設が多くなっており、薬物療法で十分な効果が得られない症例にも効果が認められるケースが多数あります。体内時計に関連した治療としては、高照度光療法があります。これはまだ標準的な治療法としてどこでも受けられるわけではありませんが、朝方、1〜2時間、光パネルの前で過ごす治療法で、効果の見られるケースがあります。ヒトの網膜にはものの形や色、明暗を受容する光受容体以外に、体内時計を合わせるために特化された光受容体が見つかっており、これは青い光に反応することが知られています。しかも、この光刺激の情報は直接脳の視床下部というところにある体内時計の中枢に送られていることが分かっています。青い光が体内時計の位相のずれを合わせるように働いた結果、うつ病に対して効果が出現すると考えられています。
山中伸弥教授のノーベル生理学・医学賞受賞に寄せて 池田正明
(南信州新聞・2013年1月1日掲載)
南信州新聞・2013年1月1日掲載誌面 ノーベル生理・医学賞の授賞式がストックホルムで行われた。生理・医学賞は、京都大学の山中伸弥教授が日本人として利根川進教授(MIT、理化学研究所)に続いて二人目の受賞となった。日本の医学部出身者あるいは医師としては初の受賞である。
 ここで「医師としては」と書いたのは、何度か受賞候補としてエントリーされながら受賞することなく、研究していた黄熱病に自分自身が感染しガーナの地で死去した野口英世博士のことを語らずして、今回の受賞の重みが語れないからである。野口英世博士は当時医師となる道として主流だった医術開業試験に苦学の末合格して医師免許を取得、その後、北里柴三郎の門を叩いて医学研究者になり、単身アメリカに渡りロックフェラー医学研究所で梅毒など当時猛威をふるっていた数々の感染症の研究で功績を挙げた立身出世物語中の偉人である。
 候補に挙っていた時期がちょうど第一次大戦(1914〜1918年)中で、戦争による経済的混乱のためノーベル賞の選考が4年間延期となっていたことも受賞しなかったことに影響したのではないかとの推測もある。それから約100年の時を経て日本の医学研究者であり、かつ医師である山中伸弥教授が受賞されたということの歴史的重みは果てしなく重いと思う。
 ところで、ノーベル賞の選考をはじめとして、研究者としての功績はどのような尺度で評価されるのであろうか。最近はデータベースが整っていて研究者の論文などの業績は立ち所にコンピューター画面に映し出される。論文は数が多いに超した事はないというが、数ばかりでなく質も問題になる。それでは、その質はどのようにして評価したらいいのだろうか。
 以前は論文が掲載されているジャーナルの採否の難易度、有名度などが論文のおおよその評価として暗黙のうちに利用されて来ていたように思う。ただ、複数の論文が掲載されるので、ジャーナルの評価が必ずしも各々の論文の評価になるわけではない。ちょうど大学生の評価を大学の有名度や受験偏差値で行おうとするようなもので、大学のこのような評価はそこに入学している個々の学生の評価とはならないのと同じようなところがある。
 最近、これにもう少し客観性を持たせた評価法が一般に受け入れられて来ているが、それは論文の被引用回数に基づくものである。新しい知見を論文として報告する時には、必ず先行研究の成果を引用するしきたりになっているが、質の高い論文ほど短期間の内に発表内容が注目され、数多く引用される傾向が高いことを利用した評価法である。
 ある一定期間の一論文あたりの被引用回数をジャーナル毎に数値化したのがインパクトファクター(IF)である。生物・医学系の研究分野では、セル、サイエンス、ネーチャーやネイチャー・メディスンなどの姉妹紙が常時インパクトファクターの上位を占めている。因みに山中教授が最初にiPS細胞の樹立について2006年に報告したのはセル誌上であった。
 毎年ノーベル賞の受賞者の発表の時期になると、被引用回数などのデータベースサービスを行っている会社が、被引用回数などのデータに基づいて受賞者の予想を行っているが、必ずしもこの予想が的中する訳ではない事は、多くの研究者が感覚的に知っている。それは被引用回数の数値として現れない因子がより選考の決め手になっている事を知っているからである。
 それはいったいどんなものなのだろうか。新規性であろうか? 新規性は重要な要素であるが、ただ新しければ価値が高いという訳ではない。実際に論文として掲載される場合はなにがしかの新規性があって掲載される筈で、言ってみればどんな論文にも新規性はあるともいえる。誰もが欲しい、知りたいと願っているものが見つかった時だろうか? それは部分的には当てはまるかもしれない。しかし、それにプラスして、「そんな事はあったらいいけれど常識的にはそんな事無理だろうね、あり得ないだろうね」とその道の専門家でも思って実験はおろか考える事も最初から諦めてしまうような事、考えて見ようとしない事、考えても見た事がない事を、実際に実験を実行して証明することこそ最高の価値なのかもしれない。
 科学は先達の実績の上に成り立っている。今までわかっていた事、出来ている事との段差が大きいほどその発見の価値は高い。一度皮膚などに分化してしまった細胞を分化のプログラムをリセットして初期値に戻してどんな臓器の細胞にも分化可能な細胞に戻すこと、これは細胞生物を少しでも勉強したことがある人にとっては、最初から「そんなこと無理、無理」と一言で片付けてしまいたくなるようなとてつもなく不可能に近い課題であった。その課題に山中教授は粛々と取り組まれた。実験に利用した方法、実験材料、実験施設は特殊なものはなく、現代の生物医学研究を行っている研究室では備わっているものである。
 もちろんそれは山中教授のキャリアーの中で実績を積まれ、そのような施設環境で研究できるポジションを獲得してきたからに他ならない。iPS細胞の発見と言う機会は、まわりからは実現が無理とも思われるような課題を、先達の成果・データを集めながら、実験に何度も失敗をしてながらもそれを繰り返し、実直に目標を追い求める研究者に訪れたことを示しており、iPS細胞の発見は、今後のiPS細胞の病気の治療への可能性を度外視しても、その価値に尚あまりあるものがあり、山中教授のノーベル賞受賞は、研究者ばかりでなく多くの人々に感動を与えている。
【埼玉医科大学教授】